許諾第05-010901号
南に利根川、北に渡良瀬川が流れる太田市。その中央にある金山は、長い歴史を持っています。
今から500年以上前のこと、新田一族の血をひく岩松家純によって金山城が築かれました。戦国武将が激しい攻防を繰り広げた時代、難攻不落の城をつくるため、険しい山の地形が利用されました。
関所が廃止されたのは明治2(1869)年。その後、鉄道や国道、高速道路、新幹線の登場とともに、碓氷峠を越える手段はさまざまに変化してきました。山のふもとに住んでいた武士たちは、戦になると山頂の城に立てこもり、敵を迎え撃ったのだとか。戦国時代が終わりを迎えその役目を終えるまで、金山城は一度も攻め落とされたことはなかったそうです。
太田市金山を歩こう!
金山へやってきたほぺたんは、まず「史跡金山城跡」へ。石垣に囲まれた通路はカーブしたり、細くなったり、石がごつごつしていて歩きにくいところもあります。これらはすべて敵から城を守るための工夫なのだとか。ほぺたんは、本丸のあった山頂を目指しながら、遠い昔、この場所で戦った武士たちの姿を思い浮かべました。
「日本100名城」に数えられる「史跡金山城跡」
次に、ほぺたんは金山のふもとにある「大光院(だいこういん)」を訪ねました。大光院は、1613年、徳川家康の命令によって建てられたお寺です。その住職として江戸から迎えられた呑龍上人(どんりゅうしょうにん)は、捨て子や貧しい家庭の子どもたちを引き取って育てました。自らが罪に問われることも恐れず、親の病気を治そうと法を破った子どもをかくまったこともあるそうです。
情け深い呑龍上人の名声は全国に広まり、「子育て呑龍さま」と呼ばれるようになりました。今でも大光院には、安産や子どもの健やかな成長を祈るため、たくさんの人が訪れています。
「呑龍さま」と呼ばれ親しまれる「大光院」
境内の黒松は呑龍上人が植えたと伝えられる
神聖な儀式に使われた「日ノ池」
金山の歴史についてもっと詳しく知りたくなったら、「史跡金山城跡ガイダンス施設」を訪ねてみましょう!建物は建築家・隈研吾氏の設計によるもの。ユニークなデザインの外壁は、金山城跡の石垣をイメージしたものなのだとか。
館内には、往時の金山城を再現したジオラマや戦国時代の様子を上映するスクリーン、大光院の成り立ちを紹介したパネルなどがあります。地元で活躍する村松藤男氏が復元した撥鏤(ばちる)※の展示(平成29年9月10日まで)など、地域の歴史や文化にちなんだ企画展が定期的に行われているので、こちらもぜひチェックしてみてください!
金山の歴史や自然を紹介
大正時代から工業の街として栄えた太田市。高度経済成長期には、たくさんの人々が太田市へと出稼ぎに集まりました。手軽に食べられる焼きそばは、工場で働く人たちに好まれ、このことが「焼きそばの街・太田」の誕生につながったといわれています。お店ごとのこだわりが詰まった「太田焼きそば」。市内のお店をめぐって、お気に入りを探してみてはいかがでしょうか?
■次回は上毛かるた「も」の札をご紹介します。