許諾第05-010901号
赤城山の豊かな自然に囲まれた富士見町。町民が訪れる前橋市役所富士見支所の前には、威風堂々とした船津傳次平の銅像が立っています。郷土の偉人としてたたえられる傳次平とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
傳次平は、1832年(天保3年)に生まれました。名主(領主のもと村政を担当した村の長)であった父は教育熱心で、農業のかたわら傳次平に学問を教えたそうです。研究心旺盛な傳次平は、自ら実験にも取り組み、効率の良い栽培技術や新しい農具などをどんどん考案しました。石に蓄えられた太陽熱を利用してイチゴを栽培する農法は、今も活用されています。
父の死後、傳次平は27歳の若さで名主を継ぐと、地域の水問題に取り組みます。その当時、農民たちは、たびたび起こる大洪水や水不足によって苦しめられていました。傳次平は、近隣の村々にも働きかけ、草ばかりで覆われていた赤城山に30万本の松を植えました。この松林は土地の保水力を高め、災害から地域を守るのに役立ったといわれています。
傳次平の像
農業技術の改良に力を尽くした傳次平は、地域の人々から尊敬されていました。明治のはじめ、その名声は政府にまで届きます。この頃、政府は農業の近代化を図ろうと、東京に駒場農学校を設立。時の政治家、揖取素彦などの推薦を受け、傳次平はその教官に大抜擢されました。
現在の東京大学農学部の前身である駒場農学校。ここで、傳次平は、稲作や養蚕の経験を生かし、農業指導者の育成に励みました。その一方、外国人教師や若い研究者たちから刺激を受けて、西洋農法と日本農法を組み合わせた「混同農法」を生み出しました。
この新農法によって傳次平の名は広く知れわたり、全国各地から講演依頼を受けるようになりました。百姓姿であらわれ、わかりやすい言葉で話す傳次平は、どこへ行っても親しまれ、講演は好評を博したといいます。訪問した先でめずらしい農産物や便利な道具などにめぐりあうと、今度はそれを各地へ広めてまわりました。
傳次平は生涯にわたって農業の発展に努め、1898年(明治31年)、66歳で亡くなりました。その後、傳次平の功績をたたえ、従五位という称号が贈られました。お墓(県指定史跡)の近くには、従五位を記念した石碑があります。この記念碑は地元の人々の寄付によってつくられたもので、傳次平がいかに地域から慕われていたかがしのばれます。
傳次平は、『上毛かるた』のほか、富士見の歴史や文化を扱った『富士見かるた』(富士見公民館などで販売)の中でも、「明治の老農(*)船津翁」としてたたえられています。
富士見町でコープぐんまが開催した米づくり体験イベントの様子
富士見かるた
取材中に見つけたパン屋さん「麦工房独標」。店内には、プレッツェルのようなドイツ風のパンから、クリームパン、メロンパンといった定番のものまで、さまざま種類が並びます。こだわりの自家製ベーコンを使ったサンドウィッチは、予約して購入するお客さんもいるほどの人気なのだとか。窓越しに緑が見えるカフェスペースはとても心地よく、ついつい長居してしまいました。
前橋市富士見町原之郷275-2
営業時間…10時~19時
定休日…毎週月曜、第2火曜日
027-289-8039
麦工房独標
■次回は「ひ」の札をご紹介します。