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NO.150 上毛かるた 「れ」の札(2014年10月号)

上毛かるた 「れ」の札

許諾第05-010901号

ロゴ

日本の歴史をつくった新田義貞

新田義貞と弟・脇屋義助の像の写真

新田義貞と弟・脇屋義助の像(太田駅前)

太田駅から車で20分ほど走ると、生品神社を囲む林が見えてきます。今は、静かなたたずまいをなす生品神社。しかし、さかのぼること680年ほど前、この場所は鎌倉幕府を倒すため集まった兵士たちの熱気に包まれていました。その軍の中心にいたのは、地元の豪族、新田義貞。「新田荘(にったのしょう)」と呼ばれる大荘園を開墾した新田氏の八代当主です。上毛かるたで「歴史に名高い」と讃えられる義貞の偉業は、この地、生品神社から始まりました。

鎌倉時代後期、政権を握る北条氏への信頼は失われ、世の中には不穏な風が吹き荒れていました。後醍醐天皇は、天皇を中心とする政治体制を再びつくろうと画策。鎌倉幕府を倒すよう、武士たちに命を下しました。鎌倉幕府と朝廷、どちらを選ぶか。義貞は思い悩んだ末、鎌倉への出撃を決意します。1333年5月8日、生品神社の境内にあるクヌギの前で討幕の旗あげをしました。

生品神社で挙兵した義貞軍はわずか150騎だったものの、道中で次々と味方が加わり、鎌倉へ到着したときは大軍になっていたといわれています。しかし、鎌倉は山と海で囲まれており、市中へ侵入できる経路はごくわずか。守りを固めた幕府軍を破るのは簡単なことではありませんでした。

一進一退の攻防を繰り返す中、義貞は、潮が引く頃を見計らい、稲村ヶ崎の干潟を駆け抜けるという作戦を思いつきます。この奇襲作戦によって、幕府軍の不意を突いて市中へ攻め入り、討幕の偉業を見事に成し遂げました。

その後、京都では、後醍醐天皇を中心とした新政権が成立しました。義貞は、後醍醐天皇の側近、軍事最高責任者として各地を転戦。1338年、越前(現福井県)で敵に襲われ、無念の死を遂げますが、義貞の偉業はその後何百年にもわたって語り継がれてゆくのでした。

生品神社 境内

生品神社 境内

義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌ

義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌギ

陣を構えたといわれる床几塚(しょうぎつか)

陣を構えたといわれる床几塚(しょうぎつか)

『太平記』は、義貞の活躍を後世に伝える物語のひとつ。『太平記』には、義貞が太刀を海に投じて神々に祈願すると、海の水が引き干潟が現れたと記されています。この奇跡的な場面は、時代をこえて人々から愛され、錦絵などに多く描かれました。太刀を掲げながら祈る義貞の姿は、上毛かるたの絵札にもなっています。また、「新田荘歴史資料館」の前には、太刀を捧げる姿をかたどった銅像があります。こちらの資料館では、郷土の歴史や貴重な文化遺産を展示しており、義貞をはじめ新田一族のことを詳しく知ることができます。

新田荘歴史資料館

新田荘歴史資料館

編集部だより

新田荘歴史資料館に展示されている新田一族の家系図。その中に「徳川義季(よしすえ)」という名前を見つけました。資料館の方にうかがったところ、義季はなんと徳川家康の先祖なのだとか。もともと「松平」の姓を名乗っていた家康は、義季の末裔と称して「徳川」へ復姓したと伝えられています。歴史に名を残す新田家と徳川家につながりがあったなんて、びっくり。資料館の近くにある「長楽寺」と「世良田東照宮」は、徳川家とゆかりが深く、江戸時代、その周辺は幕府の庇護のもと繁栄したそうです。

長楽寺

長楽寺

世良田東照宮

世良田東照宮

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■次回は「ま」の札をご紹介します。