許諾第05-010901号
関東平野の北端に位置する高崎市。江戸時代より高崎の街は、越後国(新潟県)へ至る三国街道、江戸と京都を結ぶ中山道が通り、商業が盛んな町として栄えました。
明治になって群馬県が誕生すると、しばらくの間、高崎に県庁が置かれました。1881(明治14)年に県庁は前橋へ移されることになりましたが、1884(明治17)年に東京・上野と高崎を結ぶ鉄道(高崎線)が完成。その後、両毛線、信越本線、上越線、八高線に加え、新幹線や高速道路も開通し、群馬県の交通の中心地として高崎は発展してきました。
上毛かるた「関東と信越つなぐ高崎市」の札には、交通網でさまざまな地域と結ばれる高崎に、群馬発展の一翼を担ってほしいという願いがこめられているそうです。
城址公園へ!
乾櫓と東門(城址公園)
県内屈指の商業都市として成長した高崎ですが、街の中には城下町の面影が今も残されています。その面影を探しに、ほぺたんは高崎を訪ねました!
高崎駅から1キロメートルほどのところにある城址公園。ここでは、移築復元された東門や乾櫓を見ることができます。乾櫓は、県内に現存する唯一の城郭建築で、もとは本丸(本城)の北西の方角(戌亥、乾)にあったことから、この名前で呼ばれているのだとか。武器や食料の保管場所としてだけでなく、敵から城を守るために使われたと考えられています。
こもれびが揺れる遊歩道
高崎城の西側には烏川が流れ、残りの三方は掘と土塁で囲まれていました。現在、土塁の上には遊歩道が整備され、春になると周辺では見事な桜を眺めることができます。昔はどんな景色が見られたのかな?江戸時代の姿に思いをはせながら、ほぺたんはお散歩を楽しみました。
ほぺたんが土塁の近くで発見した案内板。この説明によると、徳川家康の命により井伊直政が高崎城を築いたのは1598(慶長3)年のこと。それ以前、この地は「和田」と呼ばれていましたが、直政は地名を「松カ崎」と改めようと考えました。しかし、直政から相談を受けた白庵和尚は、「松はやがて枯れる。『成功高大』という意味をこめて『高崎』としてはどうか」と提案し、これが採用されたといわれています。
高崎城の歴史を紹介する案内板
城址公園の南側に建つ龍廣寺は、「高崎」の名づけ親となった白庵和尚が開山したお寺です。堂々たる風情の山門には、「高崎山」の文字が掲げられ、「高崎」の地名がここにはじまったことを今に伝えています。
龍廣寺 山門
中山道の宿場町として栄えた高崎の中心地には、徳川家ゆかりのお寺や百年以上の歴史を持つ老舗が点在しています。旧中山道からすこし入った場所にある「糀屋(こおじや)」は、なんと創業430年!お店こだわりの米糀は、代々受け継がれる製法を忠実に守り、すべて手づくりされています。米糀の甘みを生かした漬物や味噌など、おみやげにいかがでしょうか?
住所…高崎市元紺屋町13
営業時間…10時~16時
休業日…土日、祝日
TEL…0120-12-5028
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■次回は上毛かるた「め」の札をご紹介します。